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文政9年の水害

文政9年(1826)5月の水害について、志津川の米田屋の旧記「旧覚用筆誌-文政七申歳武智幸脩」は次のように記している。「5月20日夜より降り出した雨は、21日の夜になって大雨となり、22日には大川筋村々に水害を生じた。田地は大痛みになり、山村では大潰え抜けがあ... 続きを読む

文化11年の洪水

文化11年(1814)、大洪水により、下林の三奈良神社の北側の田地が流失した。このため、重信川の瀬筋が変わり、滝ノ下泉は埋没し、滝ノ下井手も失った。 続きを読む

文化10年の洪水

文化10年(1813)、大洪水により、下林の三奈良神社の北側の田地が流失した。このため、重信川の瀬筋が変わり、滝ノ下泉は埋没し、滝ノ下井手も失った。 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

文政5年の洪水

文政5年(1822)6月、内川で大洪水があり、井手框が流損し、堰構築の資材が流失した。 続きを読む

享保17年の洪水

享保17年(1732)5月20日より、天候不順となり霖雨続き、重信川が氾濫した。続いて、6月初めよりウンカが発生した。このため、農作物は収穫皆無となり、穀類は高騰し、松山藩内の餓死者数は、享保17年11月29日の幕府への届け出によると、3,589人に達した。伊... 続きを読む

昭和21年の洪水

昭和21年(1946)7月、出水により、拝志堤防1箇所、南吉井堤防1箇所が決壊し、濁流が耕地を襲った。昭和18年、20年、21年と続く災害に、地元住民は強固な堤防の築造を中央に請願し、災害国補工事として認可され、昭和22年2月に着工した。 続きを読む

昭和20年の阿久根台風

昭和20年(1945)10月10日、鹿児島県阿久根に上陸した台風は、瀬戸内海を斜断して山陰沖に出た雨台風であった。松山測候所によると、10日には7日以来の総雨量が308ミリに達していた。重信川は、昭和18年7月水害により決壊した堤防の復旧中であり、復旧工事中の... 続きを読む

昭和18年の洪水

昭和18年(1943)7月21日~24日までの4日間、豪雨が降り続き、その雨量は松山で540ミリ、川上で800ミリに達した。この豪雨により重信川は増水し、23日午前9時に北伊予村徳丸の左側堤防が、続いて拝志以下6箇所の堤防が決壊し、濁流は拝志村、荏原村、北伊予... 続きを読む

大正12年の洪水

大正12年(1923)6月15日より雨降り続き、諸川で出水。23日には晴れるが、7月に入りまた霖雨となり、時には落雷、豪雨により、田、川、平原の区別なく濁水が氾濫した。7月11日には、小野川の80歳の老人が未曾有と語るほどの出水となり、小野川橋が破損して鉄道が... 続きを読む

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