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明治29年の豪雨

昭和29年(1896)10月、稲の完熟期に豪雨があり、午後3時頃に北方海上地区の三嶋神社裏の重信川左岸が150m程切れた。重信川の本流は猪之窪、せんだの窪を経て、西古市東の低部から南方の森地区を流れ、相の川から表川に至る田も稲も流失し、その流域40町歩は全くの... 続きを読む

享保17年の長雨

享保17年(1732)5月20日から7月上旬まで雨降り止まず、次いでウンカが発生した。物価が騰貴し、飢饉となり、享保17年11月19日に藩が幕府出した届け出によると、餓死者は3,489人に達した。伊予郡筒井村の農夫作兵衛が麦嚢袋を枕に餓死したのはこの年9月23... 続きを読む

文化11年の洪水

文化11年(1814)、大洪水により、下林の三奈良神社の北側の田地が流失した。このため、重信川の瀬筋が変わり、滝ノ下泉は埋没し、滝ノ下井手も失った。 続きを読む

文化10年の洪水

文化10年(1813)、大洪水により、下林の三奈良神社の北側の田地が流失した。このため、重信川の瀬筋が変わり、滝ノ下泉は埋没し、滝ノ下井手も失った。 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

文政5年の洪水

文政5年(1822)6月、内川で大洪水があり、井手框が流損し、堰構築の資材が流失した。 続きを読む

昭和21年の洪水

昭和21年(1946)7月、出水により、拝志堤防1箇所、南吉井堤防1箇所が決壊し、濁流が耕地を襲った。昭和18年、20年、21年と続く災害に、地元住民は強固な堤防の築造を中央に請願し、災害国補工事として認可され、昭和22年2月に着工した。 続きを読む

昭和20年の阿久根台風

昭和20年(1945)10月10日、鹿児島県阿久根に上陸した台風は、瀬戸内海を斜断して山陰沖に出た雨台風であった。松山測候所によると、10日には7日以来の総雨量が308ミリに達していた。重信川は、昭和18年7月水害により決壊した堤防の復旧中であり、復旧工事中の... 続きを読む

昭和18年の洪水

昭和18年(1943)7月21日~24日までの4日間、豪雨が降り続き、その雨量は松山で540ミリ、川上で800ミリに達した。この豪雨により重信川は増水し、23日午前9時に北伊予村徳丸の左側堤防が、続いて拝志以下6箇所の堤防が決壊し、濁流は拝志村、荏原村、北伊予... 続きを読む

大正12年の洪水

大正12年(1923)6月15日より雨降り続き、諸川で出水。23日には晴れるが、7月に入りまた霖雨となり、時には落雷、豪雨により、田、川、平原の区別なく濁水が氾濫した。7月11日には、小野川の80歳の老人が未曾有と語るほどの出水となり、小野川橋が破損して鉄道が... 続きを読む

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