文政6年の水争い

災害年月日
1823年07月17日
市町村
愛媛県松山市
災害種類
渇水  
概要
文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「分水功徳主命」として南吉田堂ノ元橋の袂に祀られた。
地理院地図
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備考
南吉田町に関谷忠七墓碑と分水功徳主命碑が建立されている。
参考画像
参考文献
門田恭一郎「伊予における水論について(下)」(高須賀康生編「伊豫史談 第318号」伊豫史談会、2000年、所収)、38-39頁
情報源の種類
市町村史、郷土史
キーワード
水争い 忠七 南吉田村 余戸村 垣生村
NO.
愛媛1559