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条件:愛媛県
享保17年(1732)、洪水、虫害のため、大飢饉となった(享保の大飢饉)。5月末よりウンカが発生し、稲は枯れ果て、藩から貧者1人1日当たり大豆1合をもらうことになったが、これも途絶えがちであった。ワラビ・クズの根、ワラ類や木の粉など、口にできるものは何でも食べ... 続きを読む
享保17年(1732)、未曾有の大干ばつとなる。今治藩では、7月13日に藩内12ヶ寺に干ばつと稲毛虫に対する祈祷を依頼し、7月19日には領内の稲作が不作のため、蔵にある米穀雑穀類などをいっさい他領に売ることを禁止するお触れを出すなどした。 続きを読む
享保17年(1732)春以来、多雨。閏5月3回洪水、夏うんか発生、稲の収穫皆無。(「伊予風水害小史」による)この年後半から翌18年にかけて食糧不足が深刻とあんり、米価も蔵相場1石につき銀80匁が、18年春の地相場は銀300匁にもはねあがった。飢人、餓死者も多く... 続きを読む
享保17年(1732)、風水害及び蝗害により飢饉となり、藩の御物成も全免され、藩主も幕府から金穀を借りて飢民の救助にあてた。この災害によって、翌享保18年には、吉田領内に約3万人の飢民ができた。 続きを読む
享保17年(1732)、長雨続きで、うんかが大発生して収穫がなく、米麦価が暴騰し、餓死者が出た。義農作兵衛が麦種を残して餓死した。領内の餓死者は3,500人、牛馬死400頭に達した。 続きを読む
享保17年(1732)、洪水、蝗害により、享保の大飢饉となった。この時、目黒村の庄屋毛利与右衛門は、私財の米銭を村民に分け与えて飢えをしのがせ、吉田藩主よりその功を賞され、吉田藩83ヶ村の庄屋頭を仰せつけられたと伝えられている。(「明治村誌」、「毛利氏歴要紀略... 続きを読む