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条件:愛媛県
享保17年(1732)、風水害及び蝗害により飢饉となり、藩の御物成も全免され、藩主も幕府から金穀を借りて飢民の救助にあてた。この災害によって、翌享保18年には、吉田領内に約3万人の飢民ができた。 続きを読む
享保17年(1732)、長雨続きで、うんかが大発生して収穫がなく、米麦価が暴騰し、餓死者が出た。義農作兵衛が麦種を残して餓死した。領内の餓死者は3,500人、牛馬死400頭に達した。 続きを読む
享保17年(1732)、洪水、蝗害により、享保の大飢饉となった。この時、目黒村の庄屋毛利与右衛門は、私財の米銭を村民に分け与えて飢えをしのがせ、吉田藩主よりその功を賞され、吉田藩83ヶ村の庄屋頭を仰せつけられたと伝えられている。(「明治村誌」、「毛利氏歴要紀略... 続きを読む
享保17年(1732)、干ばつ及び虫付きのため、7月13日に光林寺に祈祷を命ず。7月19日、米麦を他処へ売ることを禁ず。8月28日、西国大名参観を免ぜられる。(「伊予風水害小史(今治拾遺)」による) 続きを読む
享保17年(1732)、長雨によって麦が不作になり、稲はウンカのためにほとんど壊滅状態となった。松山藩では、5,705人の餓死者を出し、藩主が幕府から差控を命じられている。伊予郡筒井村(現松前町)の百姓作兵衛が餓死した時、麦の種子を枕にしていたという逸話がある... 続きを読む