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条件: 渇水
昭和14年(1939)干ばつにより、高瀬川をめぐる水論が起こった。平池集落の百姓総出で高瀬川沿いに5m四方の出水を急造し、そこにしみ出る水を水車数台で平池の田地に運んだ。これは岩瀬用水掛の百姓にとっては、用水の量が確保できないため、一大事である。争点は、出水に... 続きを読む
昭和14年(1939)、干ばつ。7月23日に県知事は雨乞い祈願を滝宮天満宮で執り行った。(「県政史年表」による)8月3日に県が市町村に、雨乞い祈願の執行を通達した。また、県は応急対策として日の出、日没前に土瓶水をやり、稲を枯死させないよう各戸に通達した。松尾村... 続きを読む
昭和14年(1939)、大干ばつのため、讃岐平野は昭和9年の旱害以上の被害を受けた。9月11日の香川県農務課の調査によると、水稲作付予定面積37,842町のうち作付不能面積1,419町、干害面積30,225町で、被害面積は耕地面積の83%強に達し、米収量は平年... 続きを読む
昭和14年(1939)、干ばつ。この時、愛媛県への干ばつ見舞いとして、秋田県から米320俵、新潟県広瀬村の個人から米25俵を寄贈されたので、本村では割当3俵をいただき、罹災農家に配給した。翌15年3月、岩手県からも200俵の寄贈があり、本村へも2俵の割当があっ... 続きを読む
昭和14年(1939)春の降雨が少なく、7月~9月に雨が降らなかった。鹿の井伏石掛110余町歩は水がなく、各自所有の用水堀でかろうじて植え付けをしたのが80余町歩で、残り30町歩は何も作れなかったという。この大干ばつを契機に、鹿の井出水伏石掛は鹿の井出水浚渫権... 続きを読む
昭和12年(1937)8月、県内山地では100~200ミリの降雨に恵まれたが、海岸及び吉野川流域では甚だ少なくほとんど50ミリ以下であった。徳島では24.0ミリであった。/ほとんど米収なし。(「大俣村誌」による) 続きを読む
昭和12年(1937)8月、県内山地では100~200ミリの降雨に恵まれたが、海岸及び吉野川流域では甚だ少なくほとんど50ミリ以下であった。徳島では24.0ミリであった。/ほとんど米収なし。(「大俣村誌」による) 続きを読む