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4104件のアーカイブスが見つかりました。

条件: 渇水

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文化8年の干ばつ

文化8年(1811)、干ばつ、被害46,000石。 続きを読む

文化8年の干ばつ

文化8年(1811)、干害のため、阿波で88,901石減収。(「徳島県史」による) 続きを読む

文化8年の干ばつ

文化8年(1811)夏、干ばつ。(「徳島県災異誌」等による) 続きを読む

文化7年の干ばつ

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文化7年(1810)7月、加茂社で雨乞い、代官所5俵。(「加茂社記」による) 続きを読む

文化7年の干ばつ

文化7年(1810)3月28日、雨があって、その後5月末まで雨なし、大日照り。(「香川県史」、「蓮井氏記録」等による) 続きを読む

文化6年の干ばつ・洪水

文化6年(1809)8月夏、旱。秋、洪水、名田(鮎喰川下流)の堤防が築かれた。(「渭水聞見録」、「蜂須賀家記」による) 続きを読む

文化6年の干ばつ・洪水

文化6年(1809)8月夏旱、秋洪水。(「徳島県史」による) 続きを読む

文化6年の干ばつ

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文化6年(1809)6月28日、干ばつ、竹之窪水論。(大洲領の災害) 続きを読む

文化6年の干ばつ

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文化6年(1809)6月26日、干ばつのため、新谷領阿蔵村と大洲領大洲村との間に竹之窪水論が起こった。阿蔵村は慣例に従い、上流の平地村に対して竹之窪井関の水脈を切り落としてもらうことを要請したが、平地村は要請を拒絶した。このため、阿蔵村の農民が井関の水脈を切り... 続きを読む

文化6年の干ばつ

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文化6年(1809)6月26日、干ばつのため、宇和島領平地村の竹之窪井堰で、新谷領阿蔵村と大洲領大洲村との間に水論が起こった。阿蔵村は慣例にしたがい上流の平地村に申し入れ、竹之窪井堰の水脈をあけたが、大洲方がせき止めたため水が途絶えた。このため、両者は口論とな... 続きを読む

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