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条件: 渇水

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文政6年の干ばつ・洪水

文政6年(1823)8月、旱害、秋洪水。(「蜂須賀家記」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)7月、旱。(「大洲市史」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)、干害。 続きを読む

文政6年の水争い

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文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「... 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)6月、大干ばつにより植え付け不能。享保以来の凶作11,600石。 続きを読む

文政6年の干ばつ

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文政6年(1823)6月、大日照、松山千人踊り。加茂社で雨乞い、郡方10俵、西12ヶ村5俵。(「加茂社記」による)/重信川河原で水喧嘩、2,000人。(「松山叢談」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月から7月にかけて、大干ばつ。(「香川用水史」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月~7月、讃岐で大旱により、高117,000石枯捨、47,000減収。 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月頃から干ばつのため、植え付けができない所が多かった。雨乞い祈祷。 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月より、干ばつのため、植え付けが相整わない所が多く、雨乞い、祈祷が各所で行われた。(「松山叢談(増田家記)による)/12月19日、当夏の干ばつにより、御損毛116,258石余の御届あり。(「松山叢談(某家記)」による)/文政6年、松山領内... 続きを読む

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