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1219件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 渇水

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文政6年の干ばつ

文政6年(1823)、干ばつのため稲の植え付けのできないところが多く、損毛高は116,258石余に及び、最大の凶作となった。この間、家中、郷町でも雨乞いの祈とうが大規模に行われた。(「増田家記」による) 続きを読む

文政6年の水論

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文政6年(1823)、伊予郡両余戸村・垣生(はぶ)村(3ヶ村)と温泉郡南吉田村が水論、百姓忠七が横死。(「愛媛県農業史」、「余土村誌」等による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

文政6年の干ばつ・洪水

文政6年(1823)、干ばつ、洪水。(「川之江村大庄屋役用記」による) 続きを読む

文政6年の水論

文政6年(1823)、松山領森松の百姓と大洲領麻生村の百姓が重信川原で水論。(「松山市史料集」、「松山市史」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

文政4年の干ばつ

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文政4年(1821)7月、郡方雨乞い、10俵。(「加茂社記」による) 続きを読む

文政4年の水論

文政4年(1821)、宇和郡大江村と真土村で水論。(「伊豫史談」282号による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

文政3年の干ばつ

文政3年(1820)、大干ばつとなった。およそ100日間雨が降らず、本島各村の農民は友浦の神路渡明神社に集まり、10日間雨乞いの祈祷を行った。 続きを読む

文政3年の干ばつ

文政3年(1820)夏、干ばつ。 続きを読む

文政3年の干ばつ

文政3年(1820)夏、旱損、松山領内で11万石。(「日本気象史料(松山市史)」による) (註)文政6年の記事内容と一致するので、松山市史の誤記であろう。 続きを読む

文政3年の干ばつ

文政3年(1820)夏、干ばつ。(愛媛県災害年表) 続きを読む

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