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条件:愛媛県 渇水
文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「... 続きを読む
文政6年(1823)6月、大日照、松山千人踊り。加茂社で雨乞い、郡方10俵、西12ヶ村5俵。(「加茂社記」による)/重信川河原で水喧嘩、2,000人。(「松山叢談」による) 続きを読む
文政6年(1823)5月より、干ばつのため、植え付けが相整わない所が多く、雨乞い、祈祷が各所で行われた。(「松山叢談(増田家記)による)/12月19日、当夏の干ばつにより、御損毛116,258石余の御届あり。(「松山叢談(某家記)」による)/文政6年、松山領内... 続きを読む