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条件: 地震・津波

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宝永4年の地震

宝永4年(1854)10月4日14時頃、四国沖と東海道沖の2つの地震が同時に発生したと考えられている。高知県の被害は流家11,170軒、全壊4,866軒、破損家1,742軒、死者1,844人に達した。流家が多いことは津波が非常に高かったことを示している。宝... 続きを読む

宝永4年の地震

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宝永4年(1707)10月4日、地震が起こった。鞆浦北町の宝永地震津波の大岩碑には丈余(約3m)の津波が3回来襲したが、地震後に津波が来るという言い伝えを考慮していたため、死者は出なかったということが記されている。また、浅川の観音庵の地蔵尊の台座には、引き潮に... 続きを読む

宝永4年の地震

宝永4年(1707)10月4日、M8.4の地震により、津波が房総から九州に至る太平洋岸を襲ったほか、瀬戸内海に入った。道後温泉が止まること145日。 続きを読む

宝永4年の地震

宝永4年(1707)10月4日、近畿、東海、四国、中国、九州に及ぶ史上最大の地震が発生した。全地域で潰家29,000個、死者4,900人を出した。津波は九州南岸から伊豆までに及び、土佐では午後3時に「津波打ち寄せて海辺の在家一所として残る方なし」と記録され、翌... 続きを読む

宝永4年の地震

宝永4年(1707)10月4日、東海地方から九州東部に至る間で大地震が発生した。四国沖と東海道沖の2つの地震が同時に発生したとも考えられている。高知県の震度は6の烈震で、被害の総計は流家11,170軒、全壊4,866軒、破損家1,742軒、死者1,844人に達... 続きを読む

宝永4年の地震

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宝永4年(1707)10月4日、大地震により津波が起こり、須崎で400余人が溺死した。この惨禍を後世の教訓として碑に残したのが「宝永津浪溺死之塚」である。この碑は130年忌の法用を営み改葬するに当たって、須崎郷浦の世話人によって計画が進められていた折に安政地震... 続きを読む

宝永4年の地震

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宝永4年(1707)10月4日、M8.6の地震による大津波が四国沿岸域に壊滅的な被害をもたらした。香川県では、宝永地震により高松で死者29人の被害が出た。また、地震動により、高松市牟礼町にある五剣山の東の峰が崩れた。この稿では、四国の宝永地震・津波に関する史料... 続きを読む

宝永4年の南海地震

宝永4年(1707)10月4日、南海トラフを震源とする地震により、県内全域に大きな被害。宇和島藩では2m以上の津波により藩主達も高台に避難し、7,273石の田が汐入となり、死者12人、流失333軒、全壊167軒の被害が出た。伊予吉田藩でも12人が犠牲となった。... 続きを読む

宝永4年の地震

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宝永4年(1707)10月4日午前10時頃より大地震、11時頃におさまった。大地は一面に割れ、家や木は乱れ崩れ、高山から大石が落ちて重なった。正午頃、大波が来るので高い山に逃れよと聞こえてきた。間もなく、白波が立った大波が見えたので、人々は右往左往して逃げ上っ... 続きを読む

宝永4年の地震

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宝永4年(1707)、大津波。鞆浦の大岩の碑文には、宝永4年10月4日未時(午後2時)地震が起こり、1丈余りの津波が三度押し寄せたが、一人の死者も出なかったのは、あらかじめ津波に備えていたからだろうなどと記されている。 続きを読む

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