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117件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 東温市(重信町)

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文化9年の水論

文化9年(1812)、久米郡志津川村で水論。(「伊豫史談」80号による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

享和3年の洪水

享和3年(1803)、重信川の堤防決壊により、被害は志津川以西の各村に及び、「牛渕の平地4尺余浸水」(八木仁平覚書)にあるように野田、高井にまで達したと記録されている。 続きを読む

寛政元年の水論

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寛政元年(1789)、菖蒲堰の上堰と下堰の分水をめぐり、水論が起こった。 続きを読む

天明8年の水論

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天明8年(1788)、菖蒲堰の上堰と下堰の分水をめぐり、水論が起こった。 続きを読む

天明5年の水論

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天明5年(1785)、干ばつのため、菖蒲堰の上堰側は高い堰で流水をせき止めたため、下堰側と水論となった。郡役人が仲介に入ったが、十分に解決することができなかったため、翌年5月に奉行所手代重松儀兵衛らが調査して、分木を門樋に立てて、分水量を調整するようにした。 続きを読む

天明5年の水論

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天明5年(1785)、菖蒲堰の上堰と下堰の分水をめぐり、水論が起こった。 続きを読む

天明5年の水論

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天明5年(1785)、干ばつのため、菖蒲堰の上堰側は高い堰で流水をせき止めたため、下堰側と水論となった。郡役人が仲介に入ったが、十分に解決することができなかったため、翌年5月に奉行所手代重松儀兵衛らが調査して、分木を門樋に立てて、分水量を調整するようにした。 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

寛延2年の水論

寛延2年(1749)、浮穴郡下林村滝の下泉で水論。(「重信町誌」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

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