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117件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 東温市(重信町)

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正徳3年の水論

正徳3年(1713)、久米郡志津川村にて水論。(「伊豫史談」80号による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

享保17年の干ばつ

享保17年(1732)、大干ばつのため、松山藩内10郡の代官の評議の結果、5月に川之内の雨滝神社、牛淵の浮嶋神社、北野田の三嶋神社が合同して「御面雨乞い」が行われた。 続きを読む

享保17年の干ばつ

享保17年(1732)、大干ばつのため、松山藩内10郡の代官の評議の結果、5月に川之内の雨滝神社、牛淵の浮嶋神社、北野田の三嶋神社が合同して「御面雨乞」が行われた。 続きを読む

享保17年の洪水

享保17年(1732)5月20日より、天候不順となり霖雨続き、重信川が氾濫した。続いて、6月初めよりウンカが発生した。このため、農作物は収穫皆無となり、穀類は高騰し、松山藩内の餓死者数は、享保17年11月29日の幕府への届け出によると、3,589人に達した。伊... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、干ばつにより重信川の流水が減少したため、菖蒲堰の上堰側は堰を二重にして慣行の禁止事項である土砂でせき止めた。このため、下堰側はこの措置の不当を訴えて、北方村庄屋に抗議をした。しかし、上堰側も用水量が不足していたため、話し合いは進まず、... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、菖蒲堰の上堰と下堰の分水をめぐり、水論が起こった。 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、干ばつにより重信川の流水が減少したため、菖蒲堰の上堰側は堰を二重にして慣行の禁止事項である土砂でせき止めた。このため、下堰側はこの措置の不当を訴えて、北方村庄屋に抗議をした。しかし、上堰側も用水量が不足していたため、話し合いは進まず、... 続きを読む

寛延2年の水論

寛延2年(1749)、浮穴郡下林村滝の下泉で水論。(「重信町誌」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

宝暦3年の水論

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宝暦3年(1753)、洪水があり、重信川の瀬筋を南側に移動させた。このため、三か村井堰の関切場を下林側の伽藍口門樋に接近させて設置したところ、水論が発生した。伽藍口門樋に接近されると、三か村井堰からの漏水と湧水を期待することができないためである。この年は郡役人... 続きを読む

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