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条件:香川県 まんのう町(満濃町)
安政元年(1854)6月14日、讃岐地方に強震があった。この地震で堤防の地盤が緩んだのか、石樋の仕替え普請がずさんであったのか、7月5日午後2時頃、樋外の石垣から水が漏れているのを池守が発見した。翌日から水漏れを防ぐための対策を講じられ、9日には高松・丸亀両藩... 続きを読む
文政4年(1821)、日照りのため、6月10日榎井・東西苗田三村の百姓が、炭所西の常包横井を切り崩し、23日には大向荒川横井及び大宮荒川横井を切り崩したことから、水利紛争が起こった。 続きを読む
宝暦5年(1755)、高松藩記にも「夏旱」(なつひでり)と明記されるほどの干ばつのため、夫婦湧出水に関する水論が起きた。大川(土器川)の東岸の羽間新田の農民が新井手を掘りつけ、横井をせき立てて水掛かりを良くしたところ、夫婦湧出水の水掛かりである西岸の四條・高篠... 続きを読む
寿永3年(1184)5月1日、大雨、洪水のため、満濃池の堤防が壊れた。その後、池内は村落となり、池内村として450年間放置された。(「香川県気象災害史」、「香川県気象史料」、「香川県防災気象要覧」等による) 続きを読む
元暦元年(1184)、洪水のため満濃池の堤防が決壊した。その後、乱世のため復旧されず、時が経つにつれて人が住みついて、池内に集落ができ、それを池内村と言うようになった。寛永5年(1628)に西嶋八兵衛によって満濃池の堤防が復旧されるとき、池内村は池外に立ち退き... 続きを読む
弘仁9年(818)、満濃池が決壊した。満濃池は大宝年間(700年頃)に始めて築かれたが、110年ほどたって決壊したことになる。この時、讃岐の国司・清原夏野は朝廷に対して復旧を歎願した。朝廷は築池の別当として路ノ真人浜継を讃岐に派遣して復旧に当たらせたが、築いて... 続きを読む